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礒部 公一 イソベ コウイチ
1974年3月12日(33歳)  右投左打  広島県出身
 御存知「悲劇の大阪近鉄最後の選手会長」にして「東北楽天初代選手会長」。この選手会長の呪いは大阪近鉄時代から引き続き強力さを誇っており、今季よりその呪いから礒部は解放される こととなったが、後任の高須の運命が非常に気になるところである。ロペスが「初代Mr.イーグルス」と呼ばれる中、本来ならばこの人が成績と自らのリーダーシップで勝ち取らなければいけなかったが、 気がついたら伏兵・山アにその座を奪われていた「球団開幕前の主役」。

 オリックス志望だった礒部を説得すべく、ヨッシャー佐々木恭介がヘリをチャーターしてまで説得して入団させた「打てて守れて走れる捕手」。前評判ではリード面では投手を考えた配球を、 守備面ではキャッチング・スローイング・フィールディング全ての面で高いレベルを誇り、打撃でも主軸を打てるだけの確実性と長打力を持ち、走塁面でも俊足と、今考えれば「どうしてこんな 選手が3位まで残っていたのか?」という謎を大いに残す高評価を得ていた。実際、打撃でも1年目から当時の近鉄捕手陣にしては高い打率である.233を記録し、守備面でも捕手・外野兼用 ながらもそれなりに成績を残していた。「このままいけば男前梨田と草魂の恋人有田以来の打てる捕手誕生か?」と近鉄ファンを大いに喜ばしたが突如'00年に盗塁阻止率が1割台まで急降下。 男前梨田が監督となり、自身の後継者として「8」を与え、「捕手・礒部」の大成を願うもののオープン戦で8連続盗塁を食らい本格的に外野にコンバート。結果的に背番号「8」は自身の後継者 としてではなく、「外野定着予告」となる。

 本来の礒部公一の打撃スタイルは、しっかりとミートを心掛け、ボールをバットに乗せて外野に運ぶ安定感溢れる中距離打者であり、振り回しまくる総ブライアント化の大阪近鉄打線にあって 強大なる存在感を残し、リーグ優勝時には「最強の5番打者」として全国に名を馳せた。が、突入していた確変状態は日本シリーズで突如終焉し、さながらストックタイプの大量獲得機のような 大ハマリモードに突入。その見事なまでの逆ブレーキ状態に誰1人として「最強の5番打者」という言葉は発しなくなった。そして徐々に復調しつつある最中、「呪われた選手会長」に就任。 そして待っていたのが例の合併問題。元「最強の5番打者」は「悲劇の選手会長」として再びお茶の間に復帰を果たす。奮闘空しく大阪近鉄が事実上の消滅となった時、分配ドラフトで プロテクト枠入りを徹底的に拒否。合併反対大阪近鉄ファンの最後の心の拠り所として好感度を大いにアップさせた。

 東北楽天入団後は「あの輝きをもう一度」という気持ちと東北のファンの過大なる「妄想」という名の評価が独り歩きしてしまい、地元メディアでは「礒部なら3割30本は固い」などと 大いに間違った評価が飛び交う。大阪近鉄イズムを力強く継承した礒部は振り回す打撃を見せるようになり、本来の持ち味と引き換えに16本のホームランを放つ。前年の26本という 数字は、ラビットボールの影響が大きいということを誰も指摘しなかったことが痛すぎる。ミート優先外野に飛ばし、その延長線上でホームランという礒部のスタイルが崩れ、復調傾向 だった打撃スタイルも一発狙いのフォームに定着してしまった。

 FA移籍の可能性も出、あの礒部がどこかに行ってしまうとファンを大いにやきもきさせたが、どうにかこうにか残留。徐々にではあるが、ホームラン狙いは山アやフェルナンデス辺りに 任せるようになり、本来のミート狙いの打撃も戻ってきた。そもそも何度も繰り返すが礒部は中距離打者が本来の姿である。本来は4番打者が還し切れなかった走者をきっちりと還す 5番打者が天職である。ただしそうは使えなかった東北楽天のチーム事情とファンの妄想。東北楽天と言う球団が礒部公一という打者を最大限に活かしたいならば、5番に据えた上で ホームランよりも確実性を優先させる礒部本来の姿に戻すように御膳立てをする必要がある。ロペスやデイモンではなく、フェルナンデスやリック、山アがいる今のチーム状況ならば 充分可能なだけに、今季こそあの礒部を…と心から祈るのみである。
経歴・経緯
西条農業高校 〜 三菱重工広島 〜 東北楽天('05・自由)
'06シーズン成績
96試合、346打数95安打、打率.275、本塁打4、打点36、盗塁5
獲得タイトル
ベストナイン('01)